第二飛行師団編合

 レイテ決戦のための増援部隊輸送(「多」号作戦。昭和十九年十月末から十二中旬まで9次にわたる)は、 少数の例外を除き米軍の空襲により大きな損害を出していた。米陸軍航空隊の根拠飛行場であるタクロバン飛行場、 ブラウエン飛行場群の機能を減殺する必要があった。第二飛行師団のレイテ第二次総攻撃はタクロバン飛行場を目標 として昭和十九年十一月二十四日に以下の戦力で行なわれた。それまで行なってきた攻撃での損失、米軍の空襲による 損失等により総機数は51機に過ぎなかった。
    ◆戦闘集団(飛行第二四・第三一・第五四・第五五戦隊他)
    ◆襲撃部隊(飛行第六七戦隊、独立飛行第七三中隊)
    ◆複戦部隊(飛行第二七・第四五戦隊)
    ◆双軽部隊(飛行第七五戦隊)
過半を戦闘機が占める攻撃隊の襲撃部隊5機・双軽部隊4機による戦果は限定されたものであった。 攻撃の拠点となったネグロス島パコロドは米軍の空襲に晒され総攻撃の継続は困難になった。 ブラウエン飛行場群攻撃のため第二挺進団が投入された。ニューギニア戦以来機会を逸していた空挺降下は十二月六日に 決行された。第二六師団(第4次「多」号作戦で主力を輸送。重装備の殆どを失う)と連携して飛行場群を奪還することを 企図したものだが、空挺部隊の確保する飛行場群に10kmまで迫った第二六師団は、背後のオルモック湾(レイテ島防衛の 第三五軍唯一の補給拠点)に十二月七日に上陸した米第七七歩兵師団の進撃を阻止するため反転し、所期の目的を達成することは できなかった。 このオルモック湾上陸を契機にレイテ島での戦況は急速に悪化した。第二飛行師団も消耗が激しく、特別攻撃隊の出撃が増加した。 昭和二十年一月十六日の富永司令官の台湾後退により第四航空軍の統帥は機能しなくなり、飛行部隊を脱出させ次の戦いのための 戦力回復を考える段階に来ていた。そうした中、大陸命第一二五八号(昭和二十年二月十七日)によりほとんどの飛行部隊は 第八飛行師団等に転出した。残留した司令部・部隊は第三航空軍戦闘序列に編入されたが、これらは昭和二十年軍令陸甲第七七号 (昭和二十年五月二日)および第八三号(昭和二十年五月十七日)により復帰していった。
   【フィリピン周辺図】 

     
昭和二十年二月二十八日
第二飛行師団司令部(師団長:寺田済一中将28) 昭和二十年軍令陸甲第八三号ニヨリ復帰
   第二飛行師団司令部空地連絡中隊 昭和二十年軍令陸甲第八三号ニヨリ復帰
   第一三飛行団司令部(団長:江山六夫中佐37)
      飛行第三〇戦隊(戦闘)
      飛行第三一戦隊(戦闘)
昭和二十年軍令陸甲第八三号ニヨリ復帰
昭和二十年軍令陸甲第七七号ニヨリ復帰
昭和二十年軍令陸甲第七七号ニヨリ復帰
   飛行第一五戦隊(司偵) 昭和二十年軍令陸甲第七七号ニヨリ復帰

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Last Update 2010/01/25