第五飛行師団編合

 第一五軍司令官牟田口廉也中将22が強引に推進したインパール(英印軍の策源地で印度国内での援蒋 ルートの要衝)攻略作戦案は大陸指第一七七六号(昭和十九年一月七日)により実施が認可された。作戦発動は 三月八日で3週間(兵が携行できる糧食の量は3週間分が限界だった)で作戦完了の予定だった。投入されたのは 北から第三一・第一五・第三三の3個師団であった。第三一師団はインパール北方のコヒマまで到達したが、 この時点で糧食は尽きかけていた。五月からの雨季には当初危惧していたとおり兵站は破綻していた。 第一五軍司令部の補給に関する空約束に業を煮やした第三一師団長佐藤幸徳中将25(補給に不安を持ち作戦開始当時、 方面軍司令部に補給の具体的数量を約束させていた)がインパール攻撃を命ずる軍命令に対して独断で師団に 退却命令を出したのは六月一日だった。これにより残りの2個師団も不利な戦いを強いられることになり、 作戦は失敗に終わった。中央がこれを認め、南方軍総司令部から作戦中止が命令されたのは七月三日であった。 作戦に参加した3個師団の師団長は全て牟田口司令官により解任されるという異常事態であった。 第五飛行師団は第一五軍の支援にあたり、特に四月から数次にわたってインパールへの空襲を行った。 また、緬甸北部において旧ビルマ公路を遮断するために大陸命第九八七号(昭和十九年四月十一日)により 第三三軍が編成され、緬甸方面軍戦闘序列に編入された。第三三軍は2個師団(第一八・第五六師団)基幹 だったが、昭和十九年五月雲南遠征軍(兵力7,200)が攻勢を開始した時、その正面に配置されていたのは 第五六師団だった。第五六師団のみでは攻勢を支えきれずビルマ公路の要衝である拉孟・騰越両守備隊は玉砕した。 第五飛行師団の編合では大陸命第一〇一〇号(昭和十九年五月十二日)により第七飛行団が第二飛行師団に転出する 等の組み換えがあった。
   【ビルマ要図】

昭和十九年六月三十日
第五飛行師団司令部(師団長:田副登中将26)
   第五飛行師団司令部空地連絡中隊
   第四飛行団司令部(団長:桑塚城大佐33)
      飛行第八戦隊(司偵、軽爆)
      飛行第五〇戦隊(戦闘)
      飛行第六四戦隊(戦闘)
      飛行第八一戦隊(司偵)(欠1中隊)
   飛行第八三戦隊(司偵)
   第一航空地区司令部、第七航空地区司令部、第一五航空地区司令部
      第一五飛行場大隊、第一七飛行場大隊、第一九飛行場大隊、
      第二三飛行場大隊、第二四飛行場大隊、第二七飛行場大隊、
      第三四飛行場大隊、第五二飛行場大隊、第七五飛行場大隊、
      第七八飛行場大隊、第八一飛行場大隊、第八二飛行場大隊、
      第八四飛行場大隊、第八五飛行場大隊、第九〇飛行場大隊、
      第九二飛行場大隊、第九四飛行場大隊、
      第五飛行場中隊、第九飛行場中隊、第一二飛行場中隊、
      第一六飛行場中隊、第一七飛行場中隊、第一八飛行場中隊、
      第三八飛行場中隊、第八五飛行場中隊
   第一航空通信聯隊
   第二航空情報聯隊
   第一七航測隊
   第七野戦飛行場設定隊、第八野戦飛行場設定隊
   高射砲第二〇聯隊
   野戦高射砲第三三大隊(乙)、野戦高射砲第三六大隊(乙)
   独立自動車第三五中隊、独立自動車第二七五中隊、独立自動車第二八〇中隊、
   独立自動車第二八一中隊
   兵站自動車第八六中隊、兵站自動車第一六七中隊、兵站自動車第一八四中隊
   陸上勤務第六七中隊、陸上勤務第六八中隊、陸上勤務第八〇中隊
   築勤務第六二中隊

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Last Update 2010/01/25