第五飛行師団編合

 印度遠征軍と雲南遠征軍とは昭和二十年一月二十七日ワンチンで合流してレド公路の打通が完了した。 緬甸方面軍では戦線縮小の意見もあったが、参謀長田中新一中将25は第一五軍をもってイラワジ河で防衛、機を見て 攻勢に出るという「盤」作戦を主導した。「盤」作戦は敗北すれば緬甸戦線が一気に崩壊しかねないという危うさを 孕んでいた。部署は北から第一五・第三一・第三三師団、予備第五三師団で、その右翼が第三三軍、左翼が第二八軍 であった。
  「盤」作戦において中核となる第一五軍はインパール作戦で消耗しており、各師団は400kmにわたる正面に 薄い防衛線を敷かざるを得なかった。英印軍は一月九日第三三軍団の一部がマンダレー北方(第一五師団担任区域) で渡河を開始した。これに対して緬甸方面軍司令部は第五三師団主力を派遣して反撃を開始したが、橋頭堡の確立を 許し苦戦に陥った。この間英印軍第三三軍団主力が二月十二日夜半から第三一・第三三師団の作戦地境に向けて渡河を開始し、 激戦の上日本軍の反撃を撃退して橋頭堡を築いた。こちらを主攻と判断した緬甸方面軍司令部は第五三師団を北部から 引き抜いて戦線を強化しようとした。 しかしここまでは英印軍の牽制行動で、その主攻は英印軍第四軍団によるものだった。第四軍団はその西、第一五軍・ 第二八軍の作戦地境に渡河を開始して二月一六日には橋頭堡を確保し二十六日には全部隊の渡河を完了した。 情報の錯綜から緬甸方面軍司令部はこれを重視せず、反撃は全般的に低調であった。第四軍団は全部隊の渡河完了を待たず、 二十一日に戦車部隊が南方150kmの要衝メイクテーラへの突進を開始した。 一方英印軍第一五軍は第二八軍に圧力を加えつつ昭和十九年十二月末から昭和二十年一月末までの間にアキャブからラムレ島 (アキャブの南方)近辺までの4ヶ所に上陸を果たし、防衛に当たった第五四師団を圧迫した。  この頃の第五飛行師団の実動機は約40機で連合軍の戦闘機約600機、軽爆約300機、重爆約150機に 比して圧倒的に不利であった。制空権を連合軍に握られた中、第五飛行師団の活動は軽爆3〜4機による緬甸各地の 飛行場攻撃に留まらざるを得なかった。
   【ビルマ要図】

昭和二十年二月二十八日
第五飛行師団司令部(師団長:服部武士中将27)
   第五飛行師団司令部空地連絡中隊
   第四飛行団司令部(団長:桑塚城大佐33)
      飛行第八戦隊(司偵、軽爆)
      飛行第五〇戦隊(戦闘)
      飛行第六四戦隊(戦闘)
      飛行第八一戦隊(司偵)(欠1中隊)
   飛行第八三戦隊(司偵)
   第一航空地区司令部、第七航空地区司令部、第一五航空地区司令部
      第一五飛行場大隊、第一七飛行場大隊、第一九飛行場大隊、
      第二三飛行場大隊、第二四飛行場大隊、第二七飛行場大隊、
      第三四飛行場大隊、第五二飛行場大隊、第七五飛行場大隊、
      第七八飛行場大隊、第八一飛行場大隊、第八二飛行場大隊、
      第八四飛行場大隊、第八五飛行場大隊、第九〇飛行場大隊、
      第九二飛行場大隊、第九四飛行場大隊、
      第五飛行場中隊、第九飛行場中隊、第一二飛行場中隊、
      第一六飛行場中隊、第一七飛行場中隊、第一八飛行場中隊、
      第三八飛行場中隊、第八五飛行場中隊
   第二航空情報聯隊
   第七野戦飛行場設定隊、第八野戦飛行場設定隊
   高射砲第二〇聯隊
   野戦高射砲第三三大隊(乙)、野戦高射砲第三六大隊(乙)
   独立自動車第三五中隊、独立自動車第二七五中隊、独立自動車第二八〇中隊、
   独立自動車第二八一中隊
   兵站自動車第八六中隊、兵站自動車第一六七中隊、兵站自動車第一八四中隊
   陸上勤務第六七中隊、陸上勤務第六八中隊、陸上勤務第八〇中隊
   築勤務第六二中隊

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Last Update 2010/03/15