飛行第六一戦隊(重爆)

  四式重爆撃機を雷撃機に改造する計画が三菱に内示されたのは昭和十八年十二月で、翌十九年一月正式に指示がおりた。 さしあたり100機を雷撃機に改修する予定で、17号機・18号機の2機が改修され海軍の横須賀航空隊で試験が行われた。 この結果161号機以降に雷撃装備を施すことになり、直ちに作業が開始された。 この間海軍の指導の下に雷撃および洋上航法の訓練が開始され、飛行第九八戦隊・飛行第七戦隊が雷撃隊となった。 飛行第六一戦隊はこれらに続き第3陣として昭和十九年十月に四式重に改変した。 戦隊は浜松で訓練後、翌二十年一月末シンガポール・チャンギー基地に進出し海軍の五航艦の協力を得て雷撃訓練を重ねて いたが、六月十九日にボルネオのパリクパパン沖に来襲した敵機動部隊の攻撃が命じられた。 戦隊は中嶋要少佐53を隊長として四式重8機よりなる「七生神雷隊」を編成して攻撃に望んだ。 8機の四式重のうち故障で3機が脱落し、5機が出撃した。これらによる戦果として轟沈2隻その他が報告された。 カットは六月二十五日の夕刻スラバヤ飛行場から離陸する、魚雷を抱いた「七生神雷隊」の四式重の貴重な写真である。 


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Last Update 2013/10/20