陸軍航空隊略史−太平洋戦争まで

陸軍航空隊略史−太平洋戦争まで

I 黎明期−航空大隊創設から満州事変まで
   1.1 臨時軍用気球研究会
   1.2 青島攻撃
   1.3 航空大隊の編成
   1.4 シベリア出兵
   1.5 航空大隊(飛行大隊)の増設
   1.6 大正十四年軍容刷新(宇垣軍縮)
   1.7 飛行聯隊の改編(昭和二年五月)
II 拡張期−満州事変から支那事変まで
   2.1 満州事変・上海事変
   2.2 関東軍飛行隊の編制改正
   2.3 昭和八年航空軍備改変
   2.4 昭和九年航空軍備改変
   2.5 昭和十年航空軍備改変
   2.6 昭和十一年航空軍備改変
   2.7 菅原視察団
III 発展期−支那事変から太平洋戦争まで
   3.0 支那事変勃発と陸軍航空部隊
   3.1 航空兵団の動員
   3.2 航空兵団の北支展開
   3.3 臨時航空兵団編成(昭和十三年一〜二月)
   3.4 昭和十三年航空軍備改変
   3.5 陸軍航空総監部の設置
   3.6 航空兵団編合
   3.7 ノモンハン事件
   3.8 在支航空兵力再編
   3.9 北部仏印進駐
   3.10 航空兵団編合
   3.11 南部仏印進駐
   3.12 関東軍特別演習




I 黎明期−航空大隊創設から満州事変まで

 大正四年に航空大隊が創設されてから、満州事変直前までに陸軍は8個飛行聯隊と 1個気球隊とを保有するに至った。これらはいずれも平時編制である。



 1.1 臨時軍用気球研究会

 欧米において航空技術が急速に進歩してきた明治四十二年七月に、我が国の航空技術の 向上を目的として「臨時軍用気球研究会」〔会長:長岡外史中将(旧)2〕が発足した。 研究会は飛行場建設地を所沢に選定し、明治四十四年四月に臨時軍用気球研究会所沢試験場が開設した。 我が国初の公式動力飛行とされる徳川好敏陸軍大尉15(後の航空兵団長)操縦のアンリ・ファルマン機の 飛行も同月、この飛行場で行われた。



 1.2 青島攻撃

 第一次世界大戦で連合国の一員となった日本は駆逐艦隊を地中海に派遣する一方、 ドイツ帝国の中国における根拠地である青島を攻略した。これに参加する青島派遣航空隊 (装備機5機および気球1基)は大正三年三月二十三日に編成を完結した。 派遣航空隊は青島攻略兵団の独立第一八師団司令部付となり爆撃・偵察任務についた。



 1.3 航空大隊の編成

 大正四年に気球隊が改編され、航空大隊が編成された。1)   航空大隊は気球隊と同じく近衛師団隷下の交通兵団長の指揮下に編入された。 航空大隊は所沢に置かれ、編制は表1-1のとおりであった。 編成完結は大正六年十二月で、編制定員は375名である。


1) 大正四年軍令陸乙第一五号「第一九、第二〇師団、航空大隊新設及輜重兵大隊、電信隊編制改正要領」(大正四年十月十四日)





 1.4 シベリア出兵

 大正七年のシベリア出兵時の陸軍航空兵力は所沢の航空大隊(1個)だけであったが、 全力で出動することに決定した。沿海洲方面の第一二師団には第一航空隊(1個中隊9機編制)、 ザバイカル洲方面の第七師団主力および第三師団には第二航空隊(2個中隊12機編制) および航空廠が配属された。第一・第二航空隊は偵察・爆撃任務についたが、陸軍航空は 創立から日が浅く兵站線のシベリア鉄道がゲリラに脅かされたこともあって、充分な戦果を 挙げたとは言い難かった。



 1.5 航空大隊(飛行大隊)の増設

 大正八年四月十日に陸軍航空部、陸軍航空学校および気球隊が設置され、 交通兵団司令部が廃止された。2)  陸軍航空部は本部および補給部より成り、陸軍大臣に隷属して調査研究・ 教育機能を有すると同時に航空機材に関する現業機関であった。3)  その編制定員は50名である。航空機材に関する現業部門は後に分離されることになる。 なお、臨時軍用気球研究会は大正九年五月に廃止された。一方、航空部隊の方も増設が行われ、名称も航空大隊から飛行大隊に改称された。4)  航空大隊(改称後は飛行大隊)の編制は表1−2のとおりである。


2) 大正八年軍令陸乙第七号「陸軍平時編制改正」(大正八年四月十日)
3) 大正八年勅令第一一一号「陸軍航空部令」(大正八年四月十二日)
4) 大正十一年勅令第三七〇号「陸軍野戦砲兵射撃学校、陸軍重砲兵射撃学校、航空隊等ノ名称改正ニ関スル件」(大正十一年八月九日)






 1.6 大正十四年軍容刷新(宇垣軍縮)

 宇垣軍縮では陸上兵力は一挙に4個師団が削減されたが、航空兵力は逆に拡充が図られた。5)  陸軍省では陸軍航空部が廃止され、陸軍航空本部が設置された。6) 陸軍航空本部の職掌は 陸軍航空部と変わらないが、編制は総務部・技術部・補給部・検査部と、機能が強化された。 これと共に、大正八年の陸軍航空部創設の時は見送られた航空兵科創設が実現した。 常備師団に所属していた飛行大隊は飛行聯隊に編制改正が行われた。7)。  飛行大隊の分科は戦闘か偵察の単科であったが、飛行聯隊はこれらの混成となり、 飛行第七、第八聯隊が新たに編成されることになった。  戦時に動員が掛かると飛行聯隊は留守部隊と野戦部隊とに分かれた。 野戦部隊の単位は飛行大隊または独立飛行中隊で、方面軍あるいは軍に配属されて地上作戦の協力を 行うものとされた。飛行聯隊の編制改正内容は表1−3に示されるとおりである。


5) 大正十四年軍令陸第一号 「陸軍常備団体配備表改定」 (大正十四年三月二十七日)
6) 大正十四年勅令第一四九号 「陸軍航空本部令制定陸軍航空部令廃止」 (大正十四年四月二十七日)
7) 「公文論考」(軍令は現存しない)






1.7 飛行聯隊の改編(昭和二年五月)

 大正十四年の航空軍容刷新で飛行聯隊の分科は戦闘・偵察の混成となったが、昭和二年五月の 編制改正で飛行第一・第二・第三.第五聯隊は単一分科の編制に戻った。8)  全部隊の編成が完結したのは昭和五年一月である。表1−4にこれを示す。 (飛行第一聯隊・第二聯隊の所在地呼称は各務原から岐阜になった)


8)  昭和二年軍令陸乙第一〇号 「陸軍平時編制改正」 (昭和二年五月七日)


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II 拡張期−満州事変から支那事変まで

 満州事変に伴い飛行聯隊から満州への戦力抽出が行われた。これにより関東軍は独自の 航空戦力を保有するに至った。満州への戦力抽出の補填を含めて内地および満州の航空戦力の 再編成が行われ、これは昭和十二年に一応の区切りが付いた。



 2.1 満州事変・上海事変

 昭和六年九月十八日の柳条湖事件に端を発した満州事変で、政府は事変の不拡大を方針としたが 関東軍はこれに従わず翌年の二月には哈爾濱を占領して東北三省(奉天省、吉林省、黒龍江省)を制した。 事変に際して、飛行聯隊から独立飛行中隊および飛行大隊が現地に派遣された。派遣部隊および編成担任部隊は 表2−1のとおりである。


 当初は九月二十二日に派遣を発令された2個独立飛行中隊が使用された。これらは平壌の第六飛行聯隊 から補給・補充を受けて中隊ごとに戦闘を行っていた。満州派遣航空部隊には独自の修理・補給機能 が必要であった。これを受けて十一月十六日に追加の3個飛行中隊を増強した5個飛行中隊をもって 関東軍飛行隊が編成され、戦闘に投入された。関東軍飛行隊の編制を表2−2に示す。修理・補給機能を 有する材料廠が飛行隊本部内に設置された。


 また昭和七年一月二十八日から二十九日にかけて上海で一九路軍との間で発生した武力衝突は 上海事変に発展した。日本からの派兵も最初の海軍陸戦隊から段階的に増強され、二月二十四日には 上海派遣軍(第一一・第一四師団基幹)の派遣9) に及んでようやく事変は収束した。 上海事変に際しても表2−3に示される飛行部隊が現地に派遣された。


9) 臨参命第一五号(昭和七年二月二十四日)




 2.2 関東軍飛行隊の編制改正

 昭和七年三月の満州国建国を機に関東軍に飛行隊の編制が改正されると共に関東軍野戦航空廠が 編成された10)。 関東軍飛行隊は3個大隊編制で大隊本部3個と飛行中隊4個は内地から派遣され、 残りの5中隊は満州事変時に派遣された表2−2の中隊が充当された。関東軍飛行隊および 関東軍野戦航空廠は関東軍司令官の隷下にあり、その編制は表2−4に示されるとおりである。


10)  昭和七年軍令陸甲第二六号「滿洲派遣諸部隊編成派遣及ヒ編成改正要領」(昭和七年六月六日)





 2.3 昭和八年航空軍備改変

 関東軍飛行隊への派出により内地・朝鮮航空部隊に生じた欠数を補填し、 併せて分科の変更も行った。本改変により内地・朝鮮・台湾の飛行聯隊の編制は 表2−5のようになった。11)


11) 昭和八年度時局兵備改善計画





 2.4 昭和九年航空軍備改変

 関東軍飛行隊増強のため、飛行第一二大隊が飛行第一二聯隊に改編され、この改編に 必要な部隊が増派された。また、これとは別に飛行第二大隊も増派された。12) この増派は 飛行第五聯隊・飛行第七聯隊の戦闘・重爆各1個大隊をもって行われたが、第五飛行聯隊の1個戦闘大隊は 欠数とされた。飛行第七聯隊については重爆・輕爆各1個中隊が補填され、軽爆・重爆各1個大隊 の編制となった。飛行第五・第七聯隊の編制を表2−6に示す。


12) 昭和九年軍令陸甲第一四号「満洲派遣飛行諸部隊編成及ヒ派遣要領」(昭和九年十一月九日)




 関東軍飛行隊編制を表2−7に示す。




 2.5 昭和十年航空軍備改変

 関東軍飛行隊の編成により、航空部隊の改変は内地・朝鮮・台湾と満州とが併行して行われた。

【内地・朝鮮・台湾】
 飛行聯隊の上部組織として飛行団が新設されることになった。第一・第二・第三飛行団司令部が編成され13b)、 飛行団の編制が令された。13a)  同時に飛行第九聯隊が新設された。13b)  また、これとは別に飛行第一四聯隊が新設された。14) 飛行団は互いに独立に運用され、 統括する上級司令部はまだ設置されていない。内地・朝鮮・台湾の航空部隊の編制は表2−8に示される とおりである。内地・朝鮮・台湾の飛行聯隊は平時編制である。なお気球隊は気球聯隊に改編された後、 昭和十一年六月に砲兵科に移管されることになる。


13a) 昭和十年軍令陸乙第二号「陸軍平時編制」(昭和十年三月三十日)
13b) 昭和十年軍令陸乙第三号「昭和十年軍備改正要領」(昭和十年三月三十日)
14)  昭和十年軍令陸乙第一四号「陸軍平時編制中改正」(昭和十年七月二十九日)および
    昭和十年軍令陸乙第一五号「昭和十年軍備改変要領中改正」(昭和十年七月二十九日)






【満州】
 関東軍飛行隊の関東軍飛行集団への改称増強、飛行第一二聯隊以外の飛行大隊の飛行聯隊への改編、 飛行第一五聯隊の新設が行われた15)。 これを表2−9に示す。なお関東軍飛行集団司令官は親補職ではない。 大隊は2個中隊編制であるが、2個中隊が大隊になっていない場合があるのは、本部要員の不足のためである。


15) 昭和十年軍令陸甲第四号「満洲派遣飛行諸部隊編成派遣及編成改正要領」(昭和十年三月三十日)





【官衙】
 昭和十年八月、航空本部の編制が改正された。これは図2−1に示すように補給・技術の現業部門を 陸軍航空補給廠・陸軍航空技術研究所に分離独立させた。16) 航空本部は総務部(第一課・第二課)・第一部(教育)・ 第二部(補給・技術)より構成され、依然陸軍省内局のままである。


16) 昭和十年勅令第二二一号「陸軍航空本部令改正」(昭和十年七月二十九日)


図2−1 陸軍航空本部編制改正




 2.6 昭和十一年航空軍備改変

【航空兵団】
 昭和十一年五月、内地・朝鮮・台湾の航空部隊を統括する航空兵団司令部の編成が発令された。17)  編制定員は23名で、兵団長は親補職であり、天皇に直隷した。18) 教育は航空本部の職掌 (これについては陸軍教育総監部から航空兵科教育についても教育総監の区処を受けさせるべきだ との意見が出ていた)であり、飛行聯隊は一連の軍令19) で師団隷下から離れることになったものの、 経理・衛生については依然として旧所属師団・軍の区処を受けるという、独立性に関しては未だ 不十分なものであった。区処とは別の命令系統に属する機関または部隊からの指示のことである。 (命令系統が異なるので「命令」ではなく、「指示」である)
 航空兵団司令部は第一(内地)・第二(朝鮮)・第三(台湾)の各飛行団を統括した。 航空兵団の編成を表2−10に示す。飛行第四・第五聯隊は将来創設される飛行団のうちの二個に 配属される予定だった。


17)  昭和十一年軍令陸乙第一九号「昭和十一年軍備改変要領」(昭和十一年五月三十日)
18)  昭和十一年軍令陸第一二号「航空兵団司令部令」(昭和十一年七月二十四日)
19)  昭和十一年軍令陸第一三号「師団司令部条例中改正」(昭和十一年七月二十九日)、
    昭和十一年軍令陸第一四号「朝鮮軍司令部条例中改正」(昭和十一年七月二十九日)、
    昭和十一年軍令陸第一五号「台湾軍司令部条例中改正」(昭和十一年七月二十九日)





【官衙】
 航空行政のあり方については、軍務局軍事課から省内に3課編制の「航空局」を設立する案が 提示される一方、航空本部からは「航空総監部」設立の提案があったりしたが、結局昭和十一年七月 航空本部は外局化されるに留まった。20) ただし、陸軍大臣の幕僚業務にも当たる等、その権限は 強化されることになった。


20) 昭和十一年勅令第二一二号「航空本部令中改正」(昭和十一年七月二十四日)



 2.7 菅原視察団

 ドイツ帝国の航空事情視察のため、大島駐独大使館付武官を長とする視察団が結成された。 大島武官の団長職は多分に名目的なものであり、実務は航空本部第一課長菅原道大大佐(当時)21 (後の教導航空軍司令官、第六航空軍司令官)が中心となったため、この視察団は 「菅原視察団」と呼ばれている。視察団は昭和十一年十月に日本を出発後翌年二月に帰国し、 その報告書は三月下旬に提出された。
 菅原視察団の報告はドイツ帝国軍制の影響を色濃く受け、空軍の独立・国防軍の創設まで踏み込んだものであった。 これらは基地航空部隊を召し上げられる事確実な海軍の反発もあり実現はできなかったが、 陸軍航空の空軍的用法(開戦劈頭の航空撃滅戦)は陸軍参謀本部の構想と一致するものであった。 したがってこのための制度変革(空地分離)の機運にも弾みがついた。「空地分離」は種々の困難を 乗り越え、昭和十三年に断行されることになる。





III 発展期−支那事変から太平洋戦争まで

  昭和十二年七月七日の盧溝橋事件をきっかけに日中は交戦状態に入った。しかし大陸本土は広大で、 陸軍は後退を続ける蒋介石を屈服させることはできず、戦線は広がり戦局は泥沼化した。航空部隊にも 動員がかかり、大陸本土への派遣が開始された。これにより航空部隊は
    ◆内地・朝鮮・台湾
    ◆満州
    ◆大陸本土
に展開することとなった。
 支那事変初期時に内地航空部隊を除いて空地分離が実施され、支援部隊を含む陸軍航空隊の部隊構成が 確立された。


 3.0 支那事変勃発と陸軍航空部隊

【支那事変の勃発】
昭和十二年に入ると中国での反日機運は盛り上がっていき、中国軍の中にも不穏な動きが見られるようになった。 そんな中、七月七日に盧溝橋付近で演習中の支那駐屯第一聯隊(聯隊長:牟田口廉也大佐22)第三大隊第八中隊と中国第二九軍 第三七師歩兵第二一九団の一部との間に銃撃が発生した。陸軍中央では積極派・慎重派に意見が分かれて意思統一が困難であった。 これに対して管轄外であるにもかかわらず関東軍は極めて積極的で、2個旅団基幹の陸上兵力と航空部隊との派兵を意見具申した。結局陸軍中央では不拡大方針を原則とするが 事変が拡大した場合に備えて派兵を行うという妥協がなされた。 これは中国側の兵力増強を招き、これに対して陸軍中央がさらに硬化するという悪循環を招いて、事変の現地解決は困難となった。 参謀本部でもついに強硬派が押し切り、事変を武力解決するという方針を固めた。これにより事変の解決は不可能になり、日中両国は事実上の戦争状態に突入した。
事変発生後派兵されたのは以下の部隊である。応急動員された師団は後に本動員されている。

派遣部隊大命
独立混成第一旅団ノ一部
独立混成第一一旅団ノ一部
関東軍飛行隊6個中隊
其ノ他
臨参命第五六号(昭和十二年七月十一日)
第二〇師団(応急動員)臨参命第五七号(昭和十二年七月十一日)
内地航空部隊18個中隊臨参命第五八号(昭和十二年七月十五日)により
臨時航空兵団を編成。
詳細は後述
第五師団(応急動員)
第六師団(応急動員)
第一〇師団(本動員)
臨参命第六五号(昭和十二年七月二十七日)


【集成飛行団の北支進出】
記述のように臨参命第五六号(昭和十二年七月十一日)により関東軍飛行集団から以下の6個中隊が北支に派遣された。

    
飛行第一五聯隊ノ2個中隊(偵察)
飛行第一六聯隊第二大隊ノ2個中隊(戦闘)
飛行第一二聯隊第一大隊ノ2個中隊(重爆)

支那駐屯軍司令官の指揮下に配属されたこれらの部隊は、最先任の上条直大佐20の元に集成飛行団を形成して支那駐屯軍の 支援に当たった。集成飛行団は、後述する臨時航空兵団の北支派遣に伴い七月末から八月初頭にかけて順次満州に帰還した。

【察哈爾作戦と第二飛行集団】
関東軍は支那駐屯軍を支援するため察哈爾兵団(3個混成旅団および第二飛行集団主力)を編成して北支に侵入した。 昭和十二年八月に関東軍飛行集団は第二飛行集団と称変されたが、飛行第一一聯隊を除く全力を察哈爾兵団に派遣した。

察哈爾兵団航空部隊
飛行第一〇聯隊ノ偵察2個中隊及ビ重爆2個中隊
飛行第一二聯隊ノ重爆4個中隊
飛行第一五聯隊ノ偵察2個中隊
飛行第一六聯隊ノ戦闘2個中隊及ビ軽爆2個中隊

これらは地上兵団の支援を行った後、上条直大佐20の指揮する臨時航空兵団を残して八月末には満州に帰還した。 臨時飛行団の編成は既述の集成飛行団と同じである。臨時飛行団は九月下旬に、以下の部隊(臨時飛行隊)を残置して満州に帰還した。 臨時飛行隊も十二月には満州に帰還した。

臨時飛行隊
飛行第一〇聯隊ノ偵察1個中隊
飛行第一一聯隊ノ戦闘1個中隊

 3.1 航空兵団の動員

既述のように内地航空部部隊でも18個中隊の派遣が決定され、以下の動員が下令された。

【航空兵団司令部】
 航空兵団司令部の動員は動員令によらず、軍令によった。21)


21) 昭和十二年軍令陸甲第六号 「支那駐屯軍、航空兵団司令部及留守航空兵団司令部臨時動員要領」 (昭和十二年七月十五日)
   JCAHR Ref No C01005685700 (アジア歴史資料センター 資料番号)



動員部隊動員管理官
航空兵団司令部航空兵団長
留守航空兵団司令部近衛師団長


   

【航空部隊】
 航空部隊の動員は以下の動員令によった。動員部隊は飛行大隊または独立飛行中隊として編成され、 飛行聯隊が留守業務を行った。動員飛行部隊の分科は以下のとおりである。
   甲:偵察  乙:戦闘  丙:軽爆  丁:重爆

第一次動員 (動第一号:昭和十二年七月十五日) 22)
動員部隊動員管理官 動員符号
第一飛行団司令部第三師団長一・十九
飛行第一大隊(甲)近衛師団長二・十九
飛行第二大隊(乙)近衛師団長三・十九
飛行第三大隊(甲)第三師団長二・十九
飛行第五大隊(丙)第三師団長二・十九
飛行第六大隊(丁)第三師団長四・十九
飛行第八大隊(乙)第一二師団長二・十九
飛行第九大隊(丙)第二〇師団長二・十九
独立飛行第三中隊(丁)第三師団長七・十九
独立飛行第四中隊(甲)第一二師団長五・十九
独立飛行第六中隊(甲)第一二師団長五・十九
独立飛行第九中隊(乙)第二〇師団六・十九
留守飛行第二聯隊第三師団長二・十九
留守飛行第四聯隊第一二師団長二・十九
留守飛行第五聯隊近衛師団二・十九
留守飛行第六聯隊第二〇師団長二・十九
留守飛行第七聯隊第三師団長四・十九
飛行場勤務第一中隊第三師団長九・十九
飛行場勤務第二中隊第一二師団長九・十九
第二野戦航空廠(甲)第三師団長二六
第三野戦航空廠(乙)第一二師団長二六


         

22) 動第一号(昭和十二年七月十五日)
   JCAHR Ref No C01005788100 (アジア歴史資料センター 資料番号)



         
追加動員 (動第五号:昭和十二年九月一日) 23)
動員部隊動員管理官 動員符号
第三飛行団司令部台湾軍司令官一・十九
独立飛行第一〇中隊(乙)台湾軍司令官六・十九
独立飛行第一一中隊(丙)台湾軍司令官七・十九
独立飛行第一四中隊(乙)台湾軍司令官一〇一ノ上
独立飛行第一五中隊(丁)台湾軍司令官七・十九
留守飛行第八聯隊台湾軍司令官二・十九


         

23) 動第五号(昭和十二年九月一日)
    JCAHR Ref No C01005788500 (アジア歴史資料センター資料番号)



 
追加動員 (動第六号:昭和十二年九月九日) 24)
動員部隊動員管理官 動員符号
第四飛行団司令部留守第一六師団長一・十九
飛行第七大隊(甲)留守第一六師団長二・十九
留守飛行第三聯隊留守第一六師団長二・十九


         

24) 動第六号(昭和十二年九月九日)
   JCAHR Ref No C01005789000 (アジア歴史資料センター資料番号)



 上記以外にも以下の部隊が動員された。

動員部隊 動員管理官  動員令  備 考 
第四野戦航空廠(甲) 留守第一六師団長  動第二号 昭和十二年七月二十七日
第五野戦航空廠(不詳) 留守第三師団長  不 詳 昭和十二年十月二日
飛行場勤務第三中隊 留守第一六師団長  動第一〇号 昭和十二年十一月五日
第一・第二野戦飛行場設定隊 留守第三師団長  不 詳 昭和十二年十二月上旬
第三野戦飛行場設定隊 留守第一六師団長  不 詳 昭和十二年十二月上旬



 3.2 航空兵団の北支展開

 動員された航空部隊をもって、臨時航空兵団を編成し、北支展開の準備段階として満州に移動する ことが命じられた。25) 臨時航空兵団の兵力を当時の陸軍航空戦力の半数近くとした意欲的なものであった。 しかし動員業務の遅延に加えて折からの悪天候にも祟られ、南滿への移動は必ずしも順調ではなかった。 移動間に22機を失ったため、最終戦力は180機余であった。臨時航空兵団は臨参命第六二号 (昭和十二年七月二十六日)により、支那駐屯軍司令官の隷下に編入された。 臨時航空兵団の編成を表3−1に示す。


25) 臨参命第五八号(昭和十二年七月十五日)




 3.3 臨時航空兵団編成(昭和十三年一〜二月)

 昭和十二年九月北京・天津を確保した日本陸軍は南進を開始した。この間臨時航空兵団は 支那派遣軍に代わり八月三十一日に、戦闘序列を発令26) された北支那方面軍の統率を受けて 対地直協任務についた。一方中支でも昭和十二年八月十三日海軍陸戦隊と中国軍との武力衝突が発生し、 この第二次上海事変を解決するため上海派遣軍編組(2個師団基幹)が発令された。27)  その後上海派遣軍は5個師団に増強され、戦闘序列が下令された。28)  このような中支方面の戦闘の拡大に対応するため、上海派遣軍および第一〇軍(上海派遣軍を支援) よりなる中支那方面軍戦闘序列が発令された。29) 中支那方面軍の攻撃により翌年二月に南京が攻略された後、 大本営は北支・中支を連絡する要衝である除州の攻略を企図した。航空兵団は北支・中支で支援を行ったが、 航空兵力に関しては北支方面は陸軍が主、中支方面は海軍が主であった。表3−2−1にこの時点の航空兵団の編成を示す。  また、留守航空兵団の編成を表3−2−2に示す。(飛行第一三聯隊はこの時点では編成完結前である)


26) 臨参命第八二号(昭和十二年八月三十一日)
27) 臨参命第七三号(昭和十二年八月二十五日)
28) 臨参命第一〇一号(昭和十二年九月十一日)
29) 大陸命第七号(昭和十二年十二月一日)





 3.4 昭和十三年航空軍備改変

【空地分離】
 飛行聯隊は表3−3に示すように編制内に整備隊を有していた。満州の飛行聯隊で整備隊が 2個あるのは、ソ連との有事の際に航空戦力を機動的に運用するため、1個は自隊機整備用、 もう1個は他所から飛来する他聯隊機整備用としているためである。内地・朝鮮・台湾の飛行聯隊は その必要がないので整備隊は1隊である。


表3−3 飛行聯隊編制



 空地分離は満州の飛行聯隊を飛行部隊(飛行戦隊)と地上部隊(飛行場大隊、航空分廠) とを分離し、両者を系列化して機能的に組み合わせようとするものである。30) そこには聯隊長を管理業務から解放し、 空中勤務に専念させようという意図もあった。
 満州での空地分離を飛行第一一聯隊を例として図3−1に示す。飛行聯隊内の整備部門と航空分廠との間で 整備業務を再編した。飛行第一一飛行戦隊と第二二飛行場大隊とは協力関係にあり、第一一飛行戦隊の 本拠飛行場の管理は第二二飛行場大隊が行った。また、機体整備も
    戦闘整備  飛行戦隊機付整備班
    中間整備  飛行大隊整備中隊
    後方整備  航空分廠
が行うものとした。後方整備はオーバーホール等の大規模整備で、それを実施する航空分廠は飛行戦隊により 規模が異なった。また、特定の協力飛行部隊を持たない飛行場中隊を牡丹江、哈爾濱、齊齊哈爾に新設し、 機動的に運用できるようにした。
 内地・朝鮮・台湾の場合は飛行場大隊は飛行戦隊と分離せず、飛行戦隊内に置かれた。30)  これを「戦隊内空地分離」という。その例を飛行第一戦隊について図3−2に示す。


30) 昭和十三年軍令陸甲第二七号「航空部隊編成要領」(昭和十三年五月二十三日)



図3−1 空地分離による編制改正(満州の場合)

      

図3−2 空地分離による編制改正(内地・朝鮮・台湾の場合)

 満州においては飛行大隊が飛行聯隊から分離されたが、これらは航空地区司令部が統括する ことになった。航空地区司令部の当初の編制定員は15名である。ドイツでは航空管区制が採用されていたが、 我が国では航空地区司令部が飛行戦隊と同数の飛行場大隊を統括し、飛行団に協力する体制とした。


【航空兵団司令部、第二飛行集団司令部】
 航空兵団司令部は定員が209名に増加31) し、兵器部・経理部・軍医部が発足したため、隷下航空部隊に 対してこれらの業務を行うことができるようになった。司令部業務を円滑に遂行するため、通信班(定員48名)・ 飛行班(定員40名)・気象班(定員30名)が付属した。 また、第二飛行集団司令部32) が発足し、 関東軍飛行集団司令部に代わり満州の飛行部隊を統括することになった。飛行集団司令部の編制は幕僚、兵器部、経理部、 医務部であった。
 航空兵団司令部は内地・朝鮮・台湾の航空部隊を統括するが、満州に移駐(昭和十五年に予定されていた) した後は第一飛行集団司令部(集団長は天皇に直隷)がこれに代わる予定であった。

 昭和十二年航空兵備改変は同年六月頃下命され順次実施される予定であったが、支那事変の勃発により 先送りされることになった。33)


【官衙】
 航空本部に経理を担当する第三部が加えられ34)、予算に関して従来の航空兵器・機材・燃料の他に 航空用土地・建造物等の予算も取り扱えるようになった。航空本部の編制定員はこの時点では177名であった。


31) 昭和十三年軍令陸甲第一〇号「航空兵団司令部編制改正要領」(昭和十三年二月十日)
    JCAHR Ref No C01005736600 (アジア歴史資料センター資料番号)
32) 昭和十三年軍令陸第一〇号「飛行集団司令部令」(昭和十三年六月四日)
33) 昭和十二年軍令陸乙第一四号「軍備改変要領中一部着手延期ニ関スル件」(昭和十二年七月二十六日)
34) 昭和十二年勅令第三七三号「陸軍航空本部令中改正」(昭和十二年七月三十日)




昭和十三年の航空軍備改変により陸軍航空部隊は以下のように改変された。

地域部隊 備考
中国航空兵団 中支那派遣軍司令官隷下
満州・朝鮮第二飛行集団 関東軍司令官隷下
本土・台湾第一飛行集団 天皇直隷


【中国】
 漢口に逃れた蒋介石を捕捉するために漢口攻略作戦が企図された。前述した空地分離は在支航空部隊については 除州作戦と漢口攻略作戦との合間にあたる昭和十三年六月に実施された。在支航空部隊では動員された飛行大隊 (編制内に飛行部隊と地上部隊とを有していた)が空地分離の対象となり、これが飛行戦隊と飛行場大隊とに 分離された。航空兵団は中支那派遣軍戦闘序列に編入され35)、その一部は北支那方面軍飛行隊を編成して 北支那派遣軍の戦闘序列に編入された35)。 表3−4に航空兵団の編成、表3−5に北支那方面軍飛行隊の 編成を示す。漢口攻略時の航空兵力は表3−4のとおりであった。漢口攻略作戦は昭和十三年八月二十二日に 発動されたが、同月末には援将ルートの揚陸地である広東も並行して攻略することとなった。 広東攻略のために第二一軍(天皇直隷)が編成された36) が、その航空部隊として第四飛行団が使用される ことになり、同航空団は漢口攻略途中の九月中旬から逐次広東攻略のための移動を行なった。 第二一軍の航空戦力を表3−6に示す。37) 漢口・広東の攻略には成功したが蒋介石は重慶に逃れた。 この時点で陸軍は内地の近衛師団、満州・朝鮮の9個師団の他に大陸本土には実に24個師団を投入しており、 これ以上の派兵は困難な状況にあった。以降の陸軍の方針は大陸本土においては長期持久に転換された。


35) 大陸命第一六九号(昭和十三年八月二日)
   北支那方面軍飛行隊は大陸命第二三一号(昭和十三年十一月十一日)により解隊
36) 大陸命第二〇〇号(昭和十三年九月十九日)
37) 大陸命第二〇三号(昭和十三年九月十九日)
   第二一軍飛行隊は大陸命第三四四号(昭和十四年九月一日)により解隊
38) 大陸命第二〇二号(昭和十三年九月十九日)
39) 大陸命第二〇四号(昭和十三年九月十九日)










【満州・朝鮮】
 飛行集団司令部令32) の制定により、第二飛行集団司令部(満州)および第一飛行集団司令部 (内地・朝鮮・台湾)が編成された。集団長は師団長相当で天皇に直隷した。第二飛行集団の編合を 表3−7に示す40)。 なお第二飛行団は昭和十三年十二月十五日に第二飛行集団隷下に入った。41)  第二飛行団所属の飛行戦隊は編制内に飛行場大隊を有していたので、第二飛行団には航空地区司令部は 無い。


40) 昭和十三年軍令陸甲第二七号「陸軍航空部隊編成要領」(昭和十三年五月二十三日)
41) 昭和十三年軍令陸甲第七七号「航空部隊一部ノ編成及編制改正」(昭和十三年十二月十五日)






【内地・台湾】
 第一飛行集団司令部は飛行集団司令部令32) により発足し、昭和十三年六月から留守航空兵団 司令部に代わり内地・朝鮮・台湾の航空部隊を統率することになった。第一飛行集団の編合を 表3−8に示す。40)   陸軍航空は急激な膨張のため人材・機材が不足し、内地には中隊を編成できず、それに代わるものとして 練習部を編成した飛行戦隊もあった。なお以前述べたように内地・朝鮮・台湾の飛行戦隊は編制内に 飛行場大隊を有しているため第一飛行集団編合内に航空地区部隊は無い。




 3.5 陸軍航空総監部の設置

 大正十四年の航空兵科独立以来、航空兵科教育も含む航空行政は陸軍航空本部の所管であったが、 それについて不都合が出るようになってきた。航空兵科教育については天皇直隷の航空兵団司令官 (航空兵団司令部令が改正42)され、兵団長は司令官に呼称変更された)が陸軍大臣(天皇直隷)隷下の、 いわば格下の陸軍航空本部長の区処を受けるという点である。区処とは直接の指揮系統にない機関・ 部隊からの指示のことである。 この回避策として以前陸軍航空本部から提案された陸軍航総監部が設置されることになり、 陸軍航空本部の教育機能が陸軍航空総監部に移管された43)。 (陸軍航空総監は天皇直隷) 陸軍航空総監は陸軍航空本部長との兼務で、陸軍航空総監部総務部・教育部の部員も航空本部総務部・第一部 との兼務であった。また、陸軍航空総監部が設立されたとはいえ、陸軍航空総監は人事に関しては陸軍大臣の、 動員・作戦に関しては参謀総長の、教育に関しては教育総監の区処を受けるという、陸軍三長官 (陸軍大臣、参謀総長、教育総監)の一段下という位置付けであった。陸軍航空総監部および陸軍航空本部 の編制を表3−9に示す。


42) 昭和十三年軍令陸第二号「航空兵団司令部令(改正)」(昭和十三年二月十二日)
43) 昭和十三年軍令陸第二一号「陸軍航空総監部令」(昭和十三年十二月七日)



表3−9 陸軍航空総監部および陸軍航空本部編制




 3.6 航空兵団編合

 航空兵団編合を示す。 44) 第二飛行集団、第一飛行集団は軍令により編合を規定されたが、 同軍令では第三飛行集団については編合される航空部隊を列挙して別途戦闘序列で規定するもの としている。第三飛行集団の編合は航空兵団に満州移駐を命じた大命 45) により発令された。 航空兵団、第二飛行集団編合を表3−10、3−11に、第一飛行集団の編合を表3−12に示す。  陸軍航空は急激な膨張のため人材・機材が不足し、内地には中隊を編成できず、それに代わるものとして 練習部を編成した飛行戦隊もあった。 なお、第三飛行集団編合は 3.8項 に示される。


44) 昭和十四年軍令陸甲第一九号「陸軍航空部隊編制」(昭和十四年六月七日)
    JCAHR Ref No C01007715800 (アジア歴史資料センター資料番号)











 3.7 ノモンハン事件

【第一次ノモンハン事件】
 満州と外蒙古との国境については日満・ソ蒙で主張が食い違い、何回か小事件が発生していた。 昭和十四年五月十一日外蒙国境を越境したとされる外蒙軍部隊に対して第二三師団は撃退のために 東支隊を派遣して外蒙軍部隊は撤退した。第二三師団は越境した外蒙軍の補足殲滅を意図し て山県支隊を出動させた。山県支隊は敵の重厚な防御に阻まれて当初目的を達成することはできなかったが、 戦場上空の航空優勢は陸軍航空隊が獲得しており、航空戦では多大の戦果を挙げることができた。 第二三師団長指揮下に表3−13の航空兵力が配属され、航空支援にあたった。

 


【第二次ノモンハン事件】
 ソ蒙軍は山県支隊の撤収とともに越境し国境地帯満州側を占拠した。関東軍はこれに対して膺懲攻撃を決意 し第二三師団主力に第七師団の一部、第一戦車団を配属し航空戦力としては第二飛行集団を投入した。 地上戦は圧倒的な戦力差に押されて悲惨な戦闘となったが、航空戦も戦力的に余裕が無い上に補給の問題により 苦戦を強いられた。航空兵力に関しては航空兵団司令部が予定を1年繰り上げて昭和十四年九月一日大陸本土から 満州に移動し45)、九月六日より統率を開始した。政府は九月九日に停戦をソ連に申し入れ、十五日には停戦の 協定が日ソ政府間で結ばれた。ソ連がポーランド侵攻を開始したのはその翌日の九月十六日である。 投入された航空部隊を表3−14に示す。


45) 大陸命第三四四号(昭和十四年九月一日)   





 3.8 在支航空兵力再編

 航空兵団司令部が満州に移駐した大陸本土では航空戦力の再編が行なわれた。 第一・第二飛行集団の編合が軍令で規定されたのに対して、第三飛行集団編合は北支那方面軍戦闘序列で規定された。45)  第三飛行集団の編合(北支那方面軍戦闘序列中)、第三飛行団の編成(中支那派遣軍戦闘序列中)、編成を解かれた 第四飛行団に代わって編成された第二一独立飛行隊の編成(第二一軍戦闘序列中)を表3−15、表3−16 、表3−17に示す。45)









 3.9 北部仏印進駐

 昭和十五年六月十七日のフランスの降伏に伴い、大本営では援将ルート遮断のために 北部仏印への進駐を企図した。進駐は大本営直轄となった南支那方面軍(司令官;安藤利吉中将16) が担当し、これの支援のために各地から航空部隊を抽出して南支那方面軍司令官の指揮下においた。 これを表3−18に示す。同図に示されるように司令部、本部の関係が重層的で運用は 必ずしも良好ではなかった。越境事件の発生で仏印側が態度を硬化させたこともあったが、 タイムリミットの九月二十二日に平和進駐協定が成立した。北部仏印進駐は制裁として 米・英・蘭(本土は独に占領されていたが植民地は抗戦していた)の対日禁輸を招いた。




 3.10 航空兵団編合

  北部仏印進駐に派遣されていた各地の航空部隊は昭和十五年十一月末頃には原駐地に復帰した。 満州では昭和十五年十二月に第五飛行集団司令部および第一〇飛行団司令部が、昭和十六年二月に 第一三飛行団司令部が設置され46)、各飛行団隷下の航空教育隊は内地に移駐した。 航空兵団(満州)の編合(第二飛行集団、第五飛行集団の編合)を表3−19(表3−20、表3−21)に示す。 表3−19中の「遠爆」とは四発重爆撃機の陸軍呼称である。海軍の一三試大型陸上攻撃機「深山」を換装する 予定であったが、「深山」の開発は失敗して陸軍の四発大型爆撃機開発計画は中断した。 また、第三飛行集団を含む大陸本土の飛行部隊編合・編成を表3−22に、第一飛行集団(内地・台湾)の編合を 表3−23に示す。46) 第二飛行集団のうち第七飛行団は「重爆飛行団」、第八飛行団は「軽爆飛行団」の編制である。 また、第一飛行集団が人的資源供給の教育養成機関となっていることが覗える。


46) 昭和一五年軍令陸甲第二五号「陸軍航空部隊編制」(昭和十五年七月十七日)
    JCAHR Ref No C01005914200  (アジア歴史資料センター資料番号)
   昭和十五年軍令陸甲第二六号「陸軍航空部隊編制改変要領」(昭和十五年七月十七日)
   昭和十五年軍令陸甲第二七号「在支航空部隊編成復帰横領」(昭和十五年七月十七日)
  


















 3.11 南部仏印進駐

 南部仏印進駐のための仏ヴィシー政府との外交交渉の結果、昭和十六年七月二十三日に日・仏印 共同防衛協定が結ばれた。大本営は第二五軍を編成し、これを大本営直轄として南部仏印に進駐を行なった。 南部仏印進駐はその制裁として米国の在米日本資産凍結、対日石油輸出全面禁止を呼び込み、 事態をより悪化させた。第二五軍の戦闘序列は七月五日に発令された47)48) が、 これによる航空部隊を表3−24に示す。


47) 大陸命第五〇三号(昭和十六年七月三日)
48) 大陸命第五〇四号(昭和十六年七月三日)   





 3.12 関東軍特別演習

  昭和十六年六月二十二日の独ソ開戦に伴い満州への兵力集中、すなわち関東軍特別演習 (関特演)が実施された。動員兵力は内地からの派遣2個師団も含む満鮮16個師団である。 飛行部隊は第一飛行集団長隷下から関東軍隷下に編入された飛行第七戦隊、 第六・第七直協飛行隊49) のみだったが、2個航空地区司令部、5個飛行場大隊、 8個飛行場中隊、2個航空通信聯隊、4個野戦飛行場設定隊、4個気象中隊等充実が図られた49)50)。 また陸軍航空総監および航空兵団司令官により編成された白城子陸軍飛行学校教導飛行団司令部・ 白城子陸軍飛行学校教導航空地区司令部および飛行第二〇八戦隊・第二〇九飛行場大隊により 白城子陸軍飛行学校教導飛行団が編成され、航空兵団司令官の隷下に編入された50)。 関特演時の航空兵団編合を表3−25〜表3−27に示す。なお偵察部隊を柔軟に運用するため、 独立飛行隊への改変を行った51)。


49) 大陸命五〇八号(昭和十六年七月十一日)
50) 大陸命第五二二号(昭和十六年八月二日)
51) 昭和十六年軍令陸甲第三八号「航空部隊一部ノ臨時編成要領」 (昭和十六年七月十二日)










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Last Update 2011/09/05