陸軍空挺部隊略史


部隊 隷属
   第一挺進集団司令部
      第一挺進飛行団司令部
         挺進飛行第一戦隊
         挺進飛行第二戦隊
         滑空飛行第一戦隊
         第一挺進飛行団通信隊
      第二挺進団司令部
         挺進第三聯隊
         挺進第四聯隊
      滑空歩兵第一聯隊
      滑空歩兵第二聯隊
      第一挺進機関砲隊
      第一挺進工兵隊
      第一挺進通信隊
第四航空軍司令官
      第一挺進団司令部
         挺進第一聯隊
         挺進第二聯隊
         第一挺進戦車隊
         第一挺進整備隊
      第一〇一飛行場中隊
      第一〇二飛行場中隊
      第一〇三飛行場中隊
第一航空軍司令官



上表は大陸命一一九七号 (昭和十九年十一月二十七日)により令された陸軍空挺部隊の編合である。上記の編制定員合計は9、835名で師団に準ずる規模であったが、隷属が分かれていることからも明らかなように空挺部隊として統一的に運用されることはなかった。

陸軍の空挺部隊は開戦直後に第一挺進団がスマトラ島パレンバン飛行場・精油所の奪取に投入された他は、後期の捷号作戦時に第四航空軍司令官隷下部隊の約半数が比島に投入された。捷号作戦時比島に投入された部隊の戦歴は以下のサイトに纏められている。
ルソン島の日本陸軍空挺部隊

本ページでは陸軍空挺部隊を、編制面に重点を置いて時系列的に紹介する。
陸軍空挺部隊は教導部隊である陸軍挺進練習部(陸軍航空総監隷下)に所属し、必要に応じて動員されて実戦部隊を編成するという形を取っていたため、その編制面での変遷はいささか複雑である。
以降では「空挺(=空中挺進)部隊」の語句は当時の呼称である「挺進部隊」に置き替える。

  *1 本ページで「挺進団ノ編成ヲ令ス」等の表現中の「編成」とは、旅団規模の部隊の「部隊構成」のことである。
  *2 臨時編成・編制改正された部隊の編制(「定員構成」)は軍令中の編制表により、
      部隊の装備の種類・定数は軍令に対応して制定される陸亜機密中の兵器定数表により規定される。
      (余談であるが、兵器定数表は必ず九五式軍刀定数から始まる)



【浜松陸軍飛行学校練習部】

日本の挺進部隊の創設は、昭和一五年十月欧州勤務から帰国した陸軍大学校教官井戸田勇中佐35が陸軍大臣東条英機大将17以下陸軍首脳に独軍の用兵(特に航空・機甲・空挺部隊の運用)に関する報告を行ったことに始まる。この報告の直後、東条陸軍大臣が落下傘部隊の創設準備を軍務局軍事課長岩畔豪雄大佐30に命じた。こうして落下傘部隊の要員養成、落下傘部隊に関する調査・研究・試験を行う機関として昭和十五年軍令陸甲第五六号(昭和十五年十一月三十日)により練習部が浜松陸軍飛行学校内に創設された。初代練習部長は河島慶吾中佐33である。


昭和十五年軍令陸甲第五六号 「浜松陸軍飛行学校教練部練習部臨時編成要領」 (昭和十五年十一月三十日)
   JCAHR Ref No C01005523900 (アジア歴史資料センター 資料番号)



上記軍令中の編制表を以下に示す。([ケ」は「兼職者」の略である)



【白城子陸軍飛行学校練習部】

部隊規模の拡大により浜松陸軍飛行学校内では兵舎・訓練場が手狭になったため、練習部は編成から数ヵ月後に満州の白城子に拠点を移した。本来は関係機関との折衝、補給・補充に便利な内地に移動すべきだったが、「防諜上最適である」との東条陸軍大臣の命によるものである。昭和十六年軍令陸甲第一四号(昭和十六年五月)により白城子陸軍飛行学校練習部が編成されている。白城子陸軍飛行学校練習部の編制は不明であるが、浜松陸軍飛行学校練習部と大差ないものと思われる。河島慶吾中佐33が引き続き練習部長に任じた。



【陸軍挺進練習部1】

東条陸軍大臣の命により練習部を白城子に置いたものの、実務者は機会を見て内地に移動することを考えていた。昭和十六年八月、ようやく内地への移動に大臣決済が下りた。昭和十六年軍令陸甲第六七号(昭和十六年十月三日)により陸軍挺進練習部等が臨時編成され、白城子陸軍飛行学校練習部は復帰した。陸軍挺進練習部は陸軍航空総監隷下で、初代陸軍挺進練習部長は久米精一大佐31である。
同軍令により臨時編成されたのは、以下の部隊である。
      
    陸軍挺進練習部    昭和十六年十月九日編成完結
     (本部、研究部、練習部、材料廠、練習員隊)
    教導挺進第一聯隊   昭和十六年十一月五日編成完結
     (本部、4中隊、通信班)
    教導挺進飛行隊    昭和十六年十月二十一日一部編成完結
     (本部、4中隊)


同軍令内の編制表は確認できないが、概略は編成完結報告から知ることができる。


「陸軍挺進練習部臨時編成完結ニ関スル書類提出ノ件報告」 (昭和十六年十一月二十七日)
   JCAHR
Ref No C04123702500 (アジア歴史資料センター 資料番号)

上記一次資料による編制表要約を以下に示す。



【第一挺進団1】

南方攻略に使用する空挺戦力として昭和十六年軍令陸甲第九三号(昭和十六年十二月一日)により第一挺進団が臨時編成された。臨時編成された部隊は以下のとおりである。挺進第一聯隊は教導挺進第一聯隊を基幹とし、団司令部は陸軍挺進練習部において編成した。第一挺進団司令部・挺進第一聯隊・挺進第二聯隊の通称号はそれぞれ風9316・風9317・風9318である。第一挺進団長は久米精一大佐31で、陸軍挺進練習部長には河島慶吾中佐33が再任した。

  第一挺進団司令部
  挺進第一聯隊(本部、4中隊、通信班)
  挺進飛行隊(第三・第四中隊欠)
  第一次編成部隊
  昭和十六年十二月四日編成完結
  挺進第二聯隊
  挺進飛行第三中隊
  第二次編成部隊
  昭和十七年一月九日編成完結



【パレンバン空挺作戦】

第一挺進団は大陸命第五八〇号(昭和十六年十二月八日)により南方軍戦闘序列に編入された。昭和十七年二月十四日にパレンバン飛行場・精油所を奪取するため空挺作戦が敢行された。この作戦のため第一挺進団は第三飛行集団長(菅原道大中将21)の指揮下に配属された。本作戦は第三八師団(佐野忠義中将23)主力のスマトラ島上陸前日に第一挺進団がパレンバン飛行場を占領して、上陸部隊と結合するという正則の空挺作戦である。昭和十七年二月十四日に第一次降下着陸を、翌十五日に第二次降下を行なった。作戦の実施に当たって第三飛行集団が支援を行なった。
投入戦力は以下のとおりである。当初投入予定であった挺進第一聯隊は輸送船明光丸の船火事により全装備を失ってしまったため、急遽編成された挺進第二聯隊が投入された。挺進飛行戦隊は4個中隊編制であったが第四中隊の編成は完結していなかった。輸送力の不足を補うため第一二輸送飛行中隊が挺進飛行戦隊長指揮下に配属された。
    挺進第二聯隊(第一次降下着陸は久米団長以下339名)
    挺進飛行隊(3個中隊)・第一二輸送飛行中隊(兵員輸送)   41機
    飛行第九八戦隊(物料投下)                       27機
    飛行第五九・六四戦隊(直掩)
    飛行第九〇戦隊(対地攻撃)
    飛行第八一戦隊・第一五独立飛行隊(偵察・誘導)
降下着陸目標は以下のとおりである。
    パレンバン飛行場、パレンバン精油所(BPM精油所・NKPM精油所より成る)
当初の南方軍命令では降下目標は飛行場で、精油所は地上進撃により占領するものとされた。しかし第一挺進団側の意見具申により精油所も降下目標に追加された。飛行場は十四日中に奪取された。精油所はNKPM精油所に大火災が発生したものの翌十五日にはBPM精油所・NKPM精油所ともに占領された。同日第三八師団先遣隊との連絡が取れ、十八日には師団主力が飛行場にも展開した。NKPM精油所(米スタンダード系)の8割が破壊されたものの、規模が遥かに大きいBPM精油所(シェル系)は殆ど無傷で確保されて本空挺作戦は成功を収めた。久米第一挺進団長は輸送機により飛行場付近に強行着陸したが、これには冒頭の井戸田勇中佐35が第一六軍参謀として同行した。
この時点での第一挺進団の編成および隷下部隊の編制は以下のとおりである。挺進聯隊には中間結節単位としての大隊は無く、4個中隊編制であった。このうち第四中隊は工兵を含み、爆破器材・軽渡河器材等を装備していた。挺進飛行戦隊は3個中隊編制(1個中隊欠)で、地上支援部隊として飛行場中隊を有していた。

【ラシオ空挺作戦(発進後中止)】

南方軍命令により昭和十七年四月十七日、第一挺進団は第五飛行師団長(小畑英良中将23)指揮下に配属された。この時第五六師団(渡辺正夫中将21)は雲南軍を追撃中であったが、雲南軍の退路を遮断するため第一挺進団をビルマ公路上のラシオに降下させることになった。降下目標は兵舎および飛行場である。
投入戦力は以下のとおりである。
    挺進第一聯隊・第二聯隊第三中隊(兵力不詳)
    挺進飛行隊(4個中隊)・第一二輸送飛行中隊(兵員輸送)   約45機
    飛行第九八戦隊(物料投下)                      約25機
    飛行第六四戦隊(直掩)                        約30機
    飛行第八戦隊(偵察)
    飛行第二七戦隊(対地攻撃)
空挺降下は第五六師団のラシオ突入と同期しなければならない。挺進団側は四月二十七日か二十八日の降下を意見具申したが飛行第九八戦隊の集結に時間がかかり、第五飛行師団長は天長節(四月二十九日)降下を命令した。四月二十九日の当日現地天候偵察のための司偵が衝突事故を起こしたため、降下部隊は現地天候を把握できないまま発進した。現地に到達すると天候は極めて悪く降下部隊は一旦引き返すこととなった。一方天長節のラシオ突入を目指して進撃していた第五六師団はこれに成功して、空挺降下の必要性はなくなり本作戦は中止された。



【陸軍挺進練習部2】

南方資源地帯攻略後、第一挺進団は大陸命第六三一号(昭和十七年五月十六日)により第五一教育飛行師団編合に編入されて内地に帰還した。その後昭和十七年軍令陸甲第六二号(昭和十七年七月三十一日)による陸軍挺進練習部の編制改正(挺進第一〜第四聯隊および挺進飛行戦隊に再編。前後して滑空班と重火器班とを新規編成。挺進聯隊は教導第一・第二が陸軍挺進練習部内にあったが、ここに第一・第二が復帰したため、前者を第三・第四と称変)に伴い、第一挺進団は復帰して所属部隊は陸軍挺進練習部長の隷下に入った。挺進第三・第四聯隊の通称号は西部118・西部119である。

陸軍挺進練習部の編制表要約を以下に示す。従来滑空班の編成は六月、重火器班の編成は八月であると言われていたが、軍令による編成下令は七月である。。

教導部隊として再編された挺進第一〜第四聯隊の編制表要約を以下に示す。第四中隊は工兵の任務も担任していた。* また、各中隊には速射砲分隊が追加された。


* 「本表ノ内第四中隊ハ中隊長、中(少)尉3名、准尉2名、下士官14名及兵85名ハ「工兵」ノ者ヲ以テ充ツルモノトシ当分ノ内他兵種ノ者ヲ以テ代フルコトヲ得」

挺進飛行戦隊の編制表要約を以下に示す。挺進飛行隊は6個中隊および飛行場中隊の挺進飛行戦隊に編制改正された。

この時の陸軍挺進練習部長は久米精一大佐31で、河島慶吾中佐33は研究部長に補職された。


「第一挺進団復帰完結書類提出ノ件」 (昭和十七年九月十六日)
   JCAHR
Ref No C01000936500 (アジア歴史資料センター 資料番号)


【第一挺進団2】

その後南東方面情勢の緊迫化に伴い、大陸命第八〇七号(昭和十八年六月十九日)により第一挺進団が第六飛行師団編合に編入された。
(大陸命中では挺進第三・第四聯隊となっているが、これは挺進第一・第二聯隊の誤りである) 第一挺進団長は河島慶吾中佐33であった。

今回は陸軍挺進練習部の重火器班から重火器隊を編成して団長直属とした。装備は九二式歩兵砲および九四式三十七粍速射砲で、これらは分解して物料投下箱に収納されて物料傘により降下するようになっていた。第一挺進団はその後その後大陸命第八一八号(昭和十八年七月二十八日)による第四航空軍戦闘序列発令に際して第四航空軍司令官直属部隊として同戦闘序列に編入された。ニューギニア航空戦においては米軍が建設しつつあるベナベナ・ハーゲン付近の飛行場群への投入が検討されたこともあったが、地形上陸上部隊の進出が困難であり九月十五日にラエが占領されて戦況が変ったことから実施は見送られた。
ニューギニア航空戦敗北後は、大陸命第命八六〇号(昭和十八年十月九日)による第三航空軍戦闘序列編入を経て、大陸命第一〇三四号(昭和十九年六月二十日)により第一航空軍編組に編入され、内地に帰還した。第一航空軍編組に編入されたのは第一挺進団をマリアナ攻撃に投入する構想があったためである。その後【第一挺進集団、第一挺進団】の項にあるような編制の改正が行われた。編制改正後は大陸命第一二一二号(昭和十九年十二月二十六日)による第六航空軍編組への編入、大陸命第一二四四号(昭和二十年二月六日)による第六航空軍戦闘序列編入、を経て大陸命第一二九八号(昭和二十年四月八日)により航空総軍戦闘序列(航空総軍司令官直属部隊)に編入された。第一挺進団はこの間内地に拘置された。



【陸軍挺進練習部3】

昭和十八年軍令陸甲第七六号(昭和十八年八月十日)により陸軍挺進練習部の編制改正が行われた。この編制改正により挺進第第五聯隊(東部116部隊)、挺進飛行第二戦隊(西部126部隊)、滑空飛行戦隊(東部117部隊)、挺進通信隊(西部120部隊)、挺進戦車隊(西部121部隊)、挺進工兵隊が新編された。また、本編制改正により内地にあった挺進第三・第四聯隊に重火器中隊が新設された。挺進第五聯隊は将来滑空歩兵部隊と重火器部隊とを編成するための母体となるものである。また、6個中隊編制であった挺進飛行戦隊は挺進飛行第一戦隊に称変・編制改正され、これに伴い2個中隊が分離されて新編の飛行場中隊と共に挺進飛行第二戦隊となった。滑空飛行戦隊は2個飛行中隊および飛行場中隊の編制であるが、この時点で出動可能なのは1個中隊のみであった。使用機材はク−八II兵員輸送用滑空機で挺進戦車隊装備の二式軽戦車(重量7.2トン、一式三十七粍戦車砲装備)以外の装備を空輸可能であった。(二式軽戦車を空輸可能なク−七大型貨物輸送用滑空機は開発中であった)


ク−八II兵員輸送用滑空機要目
 全幅23.2m、全長13.3m、全高3.5m
 自重1、700kg、総重量3、500kg
 翼面積50.7m2
 最良滑空比15.9、最小沈下速度1.9m/s 乗員2名+兵員20名または山砲を含む兵器類
ク−七大型貨物輸送用滑空機要目
 全幅35.0m、全長19.92m、全高5.9m
 自重4、500kg、総重量12、000kg
 翼面積112.5m2
 最良滑空比20.0、最小沈下速度2.0m/s 乗員2名+兵員32名または二式軽戦車1輌


 先の軍令は現存していないが、挺進飛行戦隊・滑空飛行戦隊については「編制人員表」摘要欄によりその編制の概要を知ることができる。 これらの編制を以下に示す。この時の挺進練習部長は久米精一大佐31であった。

挺進第一〜第四聯隊では工兵を含む第四中隊が、作業中隊と称変された。また、挺進通信隊、挺進戦車隊、挺進工兵隊は後に昭和十九年軍令陸甲第一五八号(昭和十九年十一月二十一日)により第一挺進通信隊、第一挺進戦車隊、第一挺進工兵隊と称変・編制改正されるものである。



【第二挺進団】

挺進第三・第四聯隊は以下の大陸命第一一六〇号(昭和十九年十月二十五日)により比島に派遣された。

さらに昭和十九年軍令陸甲第一四六号(昭和十九年十一月二日)により以下の部隊が臨時編成または編制改正された。




上記部隊の通称番号は昭和十九年陸亜機密第六三七号により以下のように与えられた。



上記を踏まえて大陸命第一一七五号(昭和十九年十一月六日)により第二挺進団編成が令され、南方軍戦闘序列に編入された。


【第二挺進団司令部】
第二挺進団長には徳永賢治大佐33が補職された。第二挺進団は次の【「テ号」作戦】で述べるようにブラウエン飛行場群奪還空挺作戦に挺進第三聯隊および第四聯隊の一部を投入した。挺進団残置隊は第四航空軍司令官冨永恭次中将25の台湾独断後退による第四航空軍の統帥崩壊後は大陸命第一二五八号(昭和二十年二月十七日)により第一四方面軍に吸収され、要衝バレテ峠の防衛戦を戦った。その後カガヤン方面への転進を命ぜられ、その途中で終戦を迎えた。



【挺進飛行第二戦隊】
挺進飛行第二戦隊は4個中隊編制であった挺進飛行第一戦隊から1個中隊を移動し*、第一三輸送飛行中隊の人員・資材で補強された。 挺進飛行第二戦隊は全般的に錬度不充分であったが、技能優良者を選抜して編成した1個中隊が「テ号」作戦に投入された。後に主力も比島に進出して輸送任務に就いた。挺進飛行第二戦隊はその後内地に帰還して昭和二十年軍令陸甲第七七号(昭和二十年五月二日)により復帰した。


* 「挺進飛行戦隊ヨリ概ネ1中隊ニ応スル人員(中隊長及操縦者ヲ除ク)ヲ挺進飛行第二戦隊ニ転属スルモノトス」
〔昭和十九年陸亜機密第六三七号(昭和十九年十一月二日)〕

【「テ号」作戦】

第二挺進団は比島への移動後、【第一挺進集団、第一挺進団3】の項で述べられているように第一挺進集団編合に編入された。昭和十九年十二月五日には挺進第三聯隊および第四聯隊の一部が「テ号」作戦(ブラウエン飛行場群奪還空挺作戦)に投入された。 〔レイテ島に上陸した米軍が根拠飛行場としたブラウエン飛行場群を奪還する空挺作戦は「テ号」作戦と命名された。第一四方面軍(山下奉文大将18)は本空挺作戦を含めた全体を「和号」作戦とした〕 「和号」作戦は挺進部隊による飛行場奪取と第三五軍(鈴木宗作中将24)隷指揮下の第一六師団(牧野四郎中将26)および第二六師団(山県栗花生中将23)との結合を目的とした。 ただし東方のドラッグ飛行場・タクロバン飛行場に関しては米軍を突破して帰還できる可能性は極めて低く、事実上後述の【「義号」作戦】に通ずる特攻作戦であった。
投入戦力は以下のとおりであった。
   挺進第三聯隊および第四聯隊の一部  475名前後(第一次降下着陸)
   挺進飛行第一戦隊および第二戦隊第一中隊(兵員輸送)   35機
   重爆撃機(強行着陸)                         4機
   重爆撃機(煙幕展張)                        13機
   戦闘機(直掩)                           約30機
降下着陸目標は以下のとおりであった。
   ブラウエン北飛行場、ブラウエン南飛行場、サンパブロ飛行場、ドラッグ飛行場、タクロバン飛行場
降下着陸は十二月六日に実施されたが輸送機の損害は大きく現地の天候も悪化したため第二次降下は中止された。降下着陸部隊は一時的には米軍を混乱させたが、彼我の戦力差から結局は撃退された。一方十二月七日にはレイテ島唯一の揚陸点であったオルモック湾に米軍が上陸を開始したため、ブラウエン南飛行場に向っていた第二六師団には反転・米軍迎撃が命ぜられて「和号」作戦は中止された。「テ号」作戦第三次以降の降下部隊もオルモック湾救援に振り向けられた。両部隊は効果的な連携は取れず補給も無いまま消耗し、本作戦は失敗に終わった。



【第一挺進集団、第一挺進団3】

昭和十九年軍令陸甲第一五八号(昭和十九年十一月二十一日)により以下の部隊が臨時編成・編制改正された。この軍令で陸軍挺進練習部および挺進第五聯隊は復帰した。これらの部隊は大陸命一一九七号(昭和十九年十一月二十七日)により編合を令された。


上記部隊の通称番号は昭和十九年陸亜機密第六六八号により以下のように与えられた。



後に航空総軍に隷属転移した部隊は兵団文字符が「帥」に変更されている。
挺進部隊通称号



【第一挺進集団司令部】
第一挺進集団司令部の編制表を以下に示す。第一挺進集団司令部は昭和十九年十一月三十日に編成を完結した。(編成地は唐瀬原) 第一挺進集団長には陸軍挺進練習部長塚田理喜智少将28が補職された。

先に述べたように第二挺進団は既に比島に投入されていたが、第一挺進集団長塚田少将は自身も含めた比島派遣を熱望した。大本営としては比島は空挺作戦を実施できる状況にないと反対であったが、塚田少将の熱意に負けた形で以下の部隊が比島に派遣されることになった。
   第一挺進集団司令部
   滑空歩兵第一聯隊
   滑空歩兵第二聯隊
   第一挺進機関砲隊
   第一挺進工兵隊
   第一挺進通信隊
上記部隊の約半数は輸送船代わりの航空母艦「雲龍」が撃沈されて比島には行き着けなかったが、残余は輸送船日向丸・青葉丸により比島に到着した。両輸送船からの揚陸中空襲のため装備の大半を失ったが兵員は上陸できた。これらははクラーク地区防衛のため昭和二十年一月十一日付で軍隊区分により編成された建武集団に編入され、塚田少将が建武集団の指揮を執った。建武集団は人員三万名を数えたが雑多な部隊の寄せ集めと言ってよく、その中で挺進部隊は貴重な戦力であった。クラーク地区は陣地構築も不充分のまま昭和二十年一月下旬に米軍の攻撃を受けた。建武集団は奮戦したが、装備・糧秣の不足もあり三月下旬には組織的戦闘が不可能になったため、四月五日付けで自活しつつ遊撃戦を展開するよう命令が下され各部隊は自活に入り終戦を迎えた。


第一挺進集団司令部の主要装備を以下に示す。


【第一挺進団司令部】
第一挺進団司令部の編制表を以下に示す。第一挺進団は先に述べたように内地に拘置された。先に述べたようにマリアナに対する空挺攻撃の構想があったためである。マリアナ空挺攻撃の構想により、「義号」作戦の項にあるように義烈空挺隊が編成された。第一挺進団長は中村勇大佐36である。


第一挺進団司令部の主要装備を以下に示す。


【第一挺進通信隊】
挺進通信隊を称変・編制改正した。第一挺進通信隊の編制表要約を以下に示す。有線中隊・無線中隊各1個から成り、無線中隊の一部は降投下可能であった。編制改正完結日は昭和十九年十一月三十日、編成地は高鍋である。


第一挺進通信隊の主要装備を以下に示す。


【挺進第一〜第四聯隊】
挺進第一〜第四聯隊の編制表要約を以下に示す。当時内地にいた挺進第三・第四聯隊は昭和十八年軍令陸甲第七六号(昭和十八年八月十日)による編制改正により重火器中隊を有していたが、外地にいて改変が遅れた挺進第一・第二聯隊は今回の編制改正で重火器中隊を追加した。挺進第一・第二聯隊の編制改正完結は昭和十九年十一月三十日(唐瀬原)であった。


挺進聯隊中の本部、中隊、作業中隊、重火器中隊の編制および主要装備を以下に示す。編制は昭和十九年軍令陸甲第一五八号附表第四の欄外注記による。 主要装備は昭和十九年陸亜機密第六六八号(昭和十九年十一月二十一日)中の兵器定数表による。 (以下同じ) 作業中隊の装備は第一挺進工兵隊の装備と比較して分かるように、工兵隊に準ずるものである。重火器中隊の主要装備は落下傘降下により搬入する必要があることから軽量の九二式歩兵砲(口径70mm、重量204kg、射程2、800m)および九七式曲射歩兵砲(口径81.3mm、重量67kg、射程2、850m)で、定数は分隊あたり2門である。



【滑空歩兵第一・第二聯隊】
滑空歩兵第一・第二聯隊の編制表要約を以下に示す。挺進第五聯隊を基幹として編成された。編成完結は昭和十九年十一月三十日であった。 (編成地は西筑波)


滑空歩兵聯隊中の本部、中隊、作業中隊、速射砲中隊、山砲中隊の編制表および主要装備を以下に示す。速射砲中隊・山砲中隊は滑空機により装備を搬入できるので、挺進聯隊重火器中隊より重装備の一式機動四十七粍砲(重量800kg、射程6、900m)および四一式山砲(口径75mm、重量540kg、射程6、300m)を装備した。その装備定数は分隊あたり1門であった。

【第一挺進機関砲隊】
挺進第五聯隊の人員・資材を基幹として編成された。編成完結は昭和十九年十一月三十日、編成地は高鍋であった。第一挺進機関砲隊の編制表要約、本部・中隊の編制および主要装備を以下に示す。主要装備は九八式高射機関砲(駄載用)で、定数は分隊あたり1門であった。編制改正完結は昭和十九年十一月三十日(高鍋)である。

【第一挺進工兵隊】
挺進工兵隊を称変・編制改正したものである。従来の2個中隊に器材小隊が追加された。第一挺進工兵隊の編制表要約、中隊の編制を以下に示す。全員・全装備滑空機搭乗・積載の部隊である。編制改正完結は昭和十九年十一月三十日、編成地は川南であった。 「編制人員表」第一挺進集団部隊一覧表によれば第一挺進工兵隊は昭和二十年軍令陸甲第八九号(昭和二十年五月二十九日)により復帰した。

【第一挺進戦車隊】
第一挺進戦車隊の編制表要約を以下に示す。挺進戦車隊を称変・編制改正した。編制改正により滑空機搭乗の歩兵中隊が編成されて編入された。戦車中隊の主要装備は二式軽戦車で、定数は19輌であるが、指揮班に3輌、各小隊に4輌の配分であったと思われる。自動車中隊は便宜上第一挺進戦車隊の編制内にあるが兵站部隊である。装備定数中の小型自動貨車は九五式小型自動貨車で自重1頓・積載量500瓩であり、ク−八II兵員輸送用滑空機に搭載可能であった。ク−八II兵員輸送用滑空機の積載量は1、800瓩が標準であり、九五式小型自動貨車搭載の場合は同時に自動車手2名・自動車用工具工具および予備部品一式・、軽機関銃2挺・同弾薬・軽機関銃手2名の運搬が可能であった。自動車中隊1個の積載量は16屯であり、正規の兵站(独立)自動車中隊の中隊あたり積載量54屯の1/3以下であった。 編制改正完結は昭和十九年十一月三十日(高鍋)である。第一挺進戦車隊は内地に拘置されたが、〔恐らく大陸命第一三五一号(昭和二十年六月十九日)により〕第一六方面軍(横山勇中将21)隷下第五七軍(西原貫治中将23、終戦時司令部所在地鹿児島県財部)戦闘序列に編入され、本土決戦準備中に終戦を迎えた。
第一挺進戦車隊を構成する歩兵中隊、戦車中隊、自動車中隊の編制および主要装備を以下に示す。

第一挺進戦車隊本部および材料廠の主要装備は以下のとおりである。

【第一挺進整備隊】
第一挺進整備隊は陸軍挺進練習部材料廠を改変したものである。編制表要約を以下に示す。編制表は兵科・各部について各階級毎の定員が記載されているが、そのまま記載すると煩雑なため編制表要約では兵科・各部の合計のみを示す。飛行整備、地上整備を行った。資料によっては飛行整備・地上整備の2中隊編制とされているが、編制表(昭和十九年軍令陸甲第一五八号附表第一〇)を見る限りは中隊編制は取られていないようである。 編制改正完結は昭和十九年十一月三十日(高鍋)である。

第一挺進整備隊の主要装備を以下に示す。

ここで降投下装備について述べる。以下は昭和十九年陸亜機密第六六八号(昭和十九年十一月二十一日)中の兵器定数表中の降投下装備の定数である。相当の数量の落下傘が必要とされていたことが分かる。装備は物料投下箱に収納され、物料投下傘により投下された。物料投下箱は投下装備に対応していて、例えば一号箱に九九式小銃を収容する場合は13挺をその弾薬類と共に収納可能であった。兵員降下用の四式落下傘、非常用の九二式同乗者用落下傘(滑空機搭乗兵員用)は当然絹布製であるが、物料投下物料傘は多少の「滑りの悪さ」(開傘失敗に繋がる)は許容されるので、資材節約の意味もあって綿布製であった。これらの物料投下は重爆撃機により行われることになっていた。陸上自衛隊の第一空挺団では落下傘の折り畳みを含む管理は落下傘整備中隊が行っているが、陸軍挺進部隊では整備隊は落下傘の修理・補充を行うのみで、折り畳みを含む落下傘の管理は各部隊が行っていた。



【第一挺進飛行団司令部】
第一挺進飛行団司令部の編制表要約を以下に示す。編成完結は昭和十九年十一月三十日(唐瀬原)、第一挺進飛行団長は河島慶吾大佐33であった。

第一挺進飛行団司令部の兵器定数表要約を以下に示す。

【第一挺進飛行団通信隊】
第一挺進飛行団通信隊の編制表要約および主要装備を以下に示す。第一挺進飛行団通信隊の編成完結は昭和十九年十一月三十日(唐瀬原)である。

【挺進飛行第一戦隊】
挺進飛行戦隊を挺進飛行第一戦隊を称変し、編制改正をおこなった。挺進飛行第一戦隊の編制表要約および主要装備を以下に示す。

【滑空飛行第一戦隊】
滑空飛行第一戦隊の編制表要約および主要装備を以下に示す。滑空飛行第一戦隊の編制は2個中隊および飛行場中隊であったが、飛行場中隊を分離した。編制改正完結は昭和十九年十一月三十日(西筑波)である。

【第一〇一〜一〇三飛行場中隊】
第一〇一〜一〇三飛行場中隊の編制人員および主要装備を以下に示す。編制表は省略し、編制定員のみ示す。



【戦争末期の空挺作戦】

捷号作戦以降の圧倒的に不利な戦局では正則の空挺作戦を実施する局面も無かった。結果として戦争末期にはコマンド部隊を投入して米軍の撹乱を図る作戦を立案・実施するに留まった。

「義号」作戦
B-29超重爆の根拠地となった「とび」(サイパン島)攻撃のため、奥山道郎大尉53(挺進第一聯隊作業中隊長)以下126名のコマンド部隊(義号部隊。通称義烈空挺隊)が編成された。しかし輸送部隊である第三独立飛行隊(諏訪部忠一大尉54)の錬度が不充分と判定されサイパン島への攻撃は中止された。大本営は次に米戦闘機が進出しつつある「つばめ」(硫黄島)攻撃を構想したが、事前に硫黄島守備隊が玉砕したのでこれも中止された。昭和二十年四月の沖縄戦激化に伴い、第六航空軍高級参謀井戸田勇大佐35(陸軍首脳にドイツ空挺部隊等の運用を帰朝報告し、これが陸軍空挺部隊誕生のきっかけになった)は義烈空挺隊による北(読谷)・中(嘉手納)飛行場制圧を強く進言し、中央がこれを容れて作戦の実行が決定された。
「義号」作戦投入戦力は以下のとおりである。
    義号部隊      120名
    第三独立飛行隊  12機(乗員32名)
作戦は昭和二十年五月二十四日に実施され、義烈空挺隊を空輸した九七式重爆のうち6機が北飛行場に、2機が中飛行場に突入したとされる。(米軍の記録では北飛行場に1機のみ突入)

「烈号」作戦
滑空機により輸送された二十粍機関砲装備の小型自動貨車を縦横に走らせて沖縄北飛行場に駐機中の米軍航空機を破壊しようという構想であった。使用戦力はク−八II兵員輸送用滑空機12機およびその曳航機、滑空機搭載の小型自動貨車12両、コマンド部隊48名であった。月明の関係で八月二十日頃実施予定で準備を進めていたが、終戦により中止となった。なお、作戦名の「烈号」は生存者の証言によるもので、正式な作戦名は文書の形では残っていない。



【挺進部隊指揮官】
各表の中央欄は命課年月日を示します。 (戦死の年月日ではありません)



【出典】
アジア歴史資料センター
  昭和十五年軍令陸甲第五六号 「浜松陸軍飛行学校教練部練習部臨時編成要領」 (昭和十五年十一月三十日)
     Ref No C01005523900
  「陸軍挺進練習部臨時編成完結ニ関スル書類提出ノ件報告」 (昭和十六年十一月二十七日)
     Ref No C04123702500
  「第一挺進団復帰完結書類提出ノ件」 (昭和十七年九月十六日)
     Ref No C01000936500
陸軍参謀本部調製 「陸軍挺進練習部編制改正等資料」 昭和十七年七月  防衛研究所図書室資料閲覧室所蔵
昭和十九年軍令陸甲第一四六号(昭和十九年十一月二日)  防衛研究所図書室資料閲覧室所蔵
昭和十九年陸亜機密第六三七号(昭和十九年十一月二日)  防衛研究所図書室資料閲覧室所蔵
昭和十九年軍令陸甲第一五八号(昭和十九年十一月二十一日)  防衛研究所図書室資料閲覧室所蔵
昭和十九年陸亜機密第六六八号(昭和十九年十一月二十一日)  防衛研究所図書室資料閲覧室所蔵
陸軍省調製 「編制人員表」  原本 防衛研究所図書室資料閲覧室所蔵
                   マイクロフィルム 国会図書館憲政資料室所蔵
陸軍省調製 陸軍命課通報綴(陸軍異動通報綴)  防衛研究所図書室資料閲覧室所蔵
森松俊夫監修 「『大本営陸軍部』 大陸命・大陸指 総集成」  エムティ出版
大内那翁逸、津野田喜長  「旧帝国陸軍編制便覧」 第二巻第二刷
田中賢一「大空の華 空挺部隊全史」  芙蓉書房出版
秋本実  「落下傘部隊」  光人社NF文庫
小川利彦  「幻の新鋭機」  光人社NF文庫


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Last Update 2011/12/05